川越の観光名所の一つ、川越城本丸御殿では保存修理工事が行われています。
本丸御殿は「埼玉県指定有形文化財」で、昭和42年度以来の大規模な保存修理工事だそうです。
現在の本丸御殿の外の様子です。
完成が楽しみですね。
~川越城本丸御殿の歴史(川越城本丸御殿保存修理工事の抜粋)~
川越城は、扇谷上杉持朝(もちとも)が古河公方足利成氏(しげうじ)に対抗するため、長禄元年(1457)に
家臣の太田道真(資清)・道灌(資長)父子に命じて築城したものです。当初の規模は、後の本丸・二の丸を合わせた程度と推定されています。
やがて徳川家康が一族家臣を従えて関東に移る際に、重臣を重要な地に配して領国の安定を図り、
川越には酒井重忠が1万石をもって封じられ、ここに川越藩の基礎が成立しました。
寛永16年(1639)に藩主となった松平信綱は川越城の大幅な拡張・整備を行い、
近世城郭の形態を整えることとなりました。
その後も明治維新に至るまで、幕府の要職にある大名が置かれた川越城は、
平成18年(2006)に財団法人日本城郭協会から「日本100名城」の選ばれています
江戸図屏風の川越城は本丸と二の丸とされる部分が描かれており、
朱塗りの社殿の三芳野神社と馬屋を隔てて向かい合う位置に白壁に囲まれた本丸御殿があり、その下に二の丸の建物群が描かれています。
本丸御殿は正面に大きな門があり、9棟以上の建物が配されています。屏風には鷹を腕に留まらせた鷹匠の姿も見えることから、
家光が川越周辺で鷹狩をした際に立寄った場面と考えることもできます。
このことから、当時の本丸御殿は将軍が川越を来訪した際に滞泊するための「御成御殿」としての性格を示しており、
城主の居所は二の丸の建物群であったとすることもできます。
明治維新を迎えると、川越城は次第に解体されていきましたが、大広間及び玄関部分だけは入間郡役所、煙草工場、中学校校舎などに使用されました。
現存する建物は往時と比べ、敷地面積にして8分の1、建坪で6分の1の規模でしかありませんが、3間の大唐破風をはじめとする建物の各部分に武家の威容を感じ取ることができます。日本国内でも本丸御殿が現存している例はきわめてまれで、昭和42年(1967)に埼玉県の指定文化財になりました。
家老詰所は、明治維新後に福岡村(現ふじみ野市)にある星野家に払い下げられていたものを、昭和63年(1988)に復元移築したものです。
江戸時代には現在の位置よりも西にあり、他の建物からは独立して土塀に囲まれていました。藩政を支えた家老の居室が残っていることは珍しく、本丸内の日常生活を知る上で貴重な建築となっています。