サツマイモ
*紅赤の発見と普及
明治31年に大宮台地にある針ヶ谷(浦和市)で
山田いちが発見したといわれています。
自分の畑で育てているサツマイモから突然変異した
「とりわけ肌の鮮紅色ないも」をみつけ、それを紅赤と名づけました。
従来のよりも味、香り、舌触りが優れているため、紅赤ファンが増加し、
東京市場でも評判になりました。
その後川越に伝わり、川越いもといえば「紅赤」といわれるようになったのです。
サツマイモの品種というと現在残っているのはほとんどといっていいほど
行政が作り、育成し、普及したものですが、
紅赤は民間人の山田いちが発見し、現在まで百年以上生き残っていおります。
山田いちには功績により、「富民賞」が送られました。
*特殊な品種、サツマイモの女王「紅赤」
紅赤は川越祭り直後から初霜が降りる時期までが最盛期で、
ほかのサツマイモより時期が遅めです。
紅赤を育てるのは難しく、作るのには大変な技術を必要とされます。
収穫量もほかのサツマイモに比べ少ない。
だか他のサツマイモにはない、味、香りで人々を魅了しているため、
作り続けられているのです。
*紅赤の危機
戦後になると主要作物がサツマイモ、麦、茶から
大根、ほうれん草、サトイモに変わり、サツマイモ作りが激減します。
一番大きな要因としては、経済性の問題です。
サツマイモを主生産とした農家経営では 収入が上がらず
専業農家では生活できなくなりました。
ほかの青野菜系は輪作体系で、同じ畑を休むことなく使って2~3種類の野菜が順次作れます。
サツマイモの場合、ほかの野菜と一緒の畑で作ると肥料のバランスが崩れ、
良質なサツマイモができなくなります。
特に紅赤の生産は難しいため、商品としての価値さえなくなってしまうのです。
より生産性・換金性がある、大根やほうれん草などの青野菜を畑で育てれば、
収入が増え豊かに生活できます。
経済優先の社会構造は、こんなところまで影響を及ぼしていたんですね・・・。
*生き残るために・・・紅赤
現在川越では川越サツマイモ商品振興会と若手農業経営者「4Hクラブ」が手を組んで、紅赤が作られております。
東洋堂でも4Hクラブの紅赤を使ったいもせんべいを販売しております。
今回は、川越芋がなぜ有名になったのか、です!!
川越地方の芋作りは、1750年頃からといわれております。
江戸の小石川養成所の薬園内でさつまいもの試作に成功し、
その後関東の各地で種芋による試作ブームが始まり、
川越にもさつまいもが伝わります。
最初に川越でさつまいも作りに成功したのは、吉田弥右衛門です。
吉田家の成功を機にさつまいも作りが徐々に広まりました。
当時、さつまいもというとあくまで飢饉に備えた救荒作物であり、
飯米を節約する食べ物でした。
だが、さつまいもの試作成功後60年、
江戸に焼き芋屋が現れ、冬のスナックとして爆発的な人気を確立し、
江戸周辺に焼き芋用のさつまいもを作る村が現れました。
とりわけ川越産のさつまいもは質量ともに優れており、
「本場もの」といわれるようになったのです。
明治維新で江戸が東京になっても、川越芋は
新河岸川の舟運で東京向けの下り荷物として、
浅草、神田、本所などの甘藷問屋に大量に送られます。
当時の名残で、浅草の隅田川縁に
「川越地方より出た小平次」の略で
「川小商店」という屋号の甘藷問屋が残っております。
<川越おいも探訪より・・>
「小江戸川越おいも探訪」より
今回は、「川越の甘藷先生、赤沢仁兵衛」についてです。
明治のさつまいも先生と呼ばれた赤沢仁兵衛。
従来の栽培技術を改良研究し、
さつまいもの収穫を倍にする増収法を確立しました。
仁兵衛は天保8年に今福村に農民として生まれました。
その後、赤沢家の婿養子となったのですが、
当時の赤沢家は畑や山林が抵当に入っており、
住んでいた家も親戚の所有で大きな借金を抱えていました。
そんな逆境の中、さつまいも以外作れる作物がなかったこともあり、
さつまいも作りで借金を返済しようと考えました。
仁兵衛はさつまいもの作り方の研究に没頭し、
明治初期にはさつまいもの増収法の基本的方法を確立しています。
のちに「赤沢式」と呼ばれるようになった要点には
1.どうすれば芋がたくさんつくよい苗ができるのか
2.ウネを思い切り高くすること
3・稚肥をたくさん加えること
がありました。
この赤沢式は後に、郡役所に注目され、
明治43年には「実験甘藷栽培法」という本も発行し、
いっそう普及がなされました。
赤沢家は今でも残っており、お墓も畑の中に立てられています。
川越がさつまいもで有名になったのも
赤沢仁兵衛の研究熱心な力もあったようです。